地域資源情報

16 スキー

その他の参考情報

特徴の補足説明

【信越県境地域のスキー場】
魚沼地方
上越地方
北信地方
長野地方
大北地方

a1 スキー場の分布

– 金谷山(上越市) –

国内スキーの発祥は、1911(明治44)年、上越市高田にあった陸軍13師団の視察に訪れていたオーストリアのレルヒ少佐により、スキーの技術講習会が行われたことによるものである。
なお、国内に初めてスキーが持ち込まれたのは、1895(明治28)年に松川敏胤が海外より持ち帰ったものであるとされている(持ち帰った経緯には諸説あり)。その後も、東北帝国大学農科大学(現北海道大学)ではドイツ語講師のハンス・コラーがスキーを輸入したり、横浜ジーメンス社の駐在員クラッツアーが富士山スキー登山を行うなどしている。
しかし、いずれの場合もスキー技術の体系的伝授・習得というプロセスが含まれておらず、上越市の金谷山では、組織的にスキー指導が行われたことをもって、国内のスキー発祥の地とされている。

– 妙高高原 –

1911(明治44)年、高田師団によるスキーやレルヒによる妙高登山などに刺激され、関温泉の笹谷旅館主が高田でスキー講習を受けて持ち帰ったのは、妙高における開拓にきっかけとなる。
はじめに妙高温泉・池の平温泉・赤倉温泉のそれぞれの旅館街の近くの短いスロープを利用したスキー場が形成された。
その後、1935年には鉄道省観光局により、赤倉が国際スキー場に指定された。
戦後も、運輸省の認可第1号となるスキーリフトが池の平スキー場と赤倉中央スキー場に建設されるなど開発が進み、現在でも赤倉温泉・赤倉観光リゾート・妙高杉ノ原・池の平温泉など、規模の大きなスキー場が集まっている。

– 飯山 –

高田で講習会を受けた市川達譲氏(飯山中学教師)により、飯山は長野県のスキー発祥の地となる。その後飯山中学の校長が、小賀坂氏にスキーを注文。
スキー場は当初、自然の山肌をそのまま利用していた。1955年、農家の冬期の収入減に対し、豪雪と農家の大きな家屋を利用したスキー場と民宿が提案され、1960年に戸狩地区にリフトが建設。この動きを受け、同様に農家経済が低迷していた他地区でもスキー場の開発がはじまった。

– 野沢温泉 –

野沢温泉へは、1912年に飯山中学の生徒によりスキーが伝わる。
温泉街の冬期の集客のため、当初から地元旅館経営者が中心となった「野沢温泉スキークラブ」がスキー場開発を主導した。外部資本を入れず、スキー場の開発は地元資本という原則が取り続けられた。
スキー場の開発は、冬季の副業としてのあけび蔓細工や内山紙の製造、出稼ぎに従事していた住民にとっても大きな関心事となった。
1955年頃からスキー客が急増した際は、スキーリフトの架設地点を上昇させることで対応し、現在では、最長滑走距離10,000mと日本最長となっている。

– 白馬 –

1913年、神城小学校の丸山先生が高田からスキーを購入し、学校の裏庭で生徒に滑ってみせたのが、白馬地区でのスキーの発祥とされる。

– 湯沢、南魚沼 –

本間栄太郎氏と時を同じくして、湯沢小学校長の田村定次氏も講習会を受けており、どちらが先かははっきりしないとの見方もある。
1920(大正9)年に本格的なスキー講習会を布場で開き、これがゲレンデとして使われた最初となる。1923(大正12)年に上越沿線で最初のスキー場である岩原スキー場が建設された。

– 志賀高原 –

1927年に長野電鉄(信州中野~湯田中間)が開業、1929(昭和4)年には長野電鉄がスキー場開発に乗り出す。国際スキー場に認定されるのは、その7年後のことである。
志賀高原では、土地の管理のため、土地所有者らによる財団法人和合会が設立され、1929年頃からは和合会から土地を借り受けた長野電鉄の手によってスキー場が開発された。
戦後は志賀高原の丸池一帯がアメリカ進駐軍に接収され、日本で初めてリフトが整備される(北海道藻岩山が初との説もあり)など、スキー場の整備が進んだ。1955年以降は和合会の出資によって設立された会社がスキー場の開発を行い、外部資本の進出は阻止された。
現在では、数多くのスキー場が集まる一帯のエリアは全国一の広さとされる。

特徴の成り立ちと影響の補足説明

b1 スキー産業への展開

日本におけるスキー生産の始まりは、第13師団が高田の三間博にスキーの製作を依頼したことと言われている(高田のどの業者が始まりかは諸説あり)。スキーが一般にも普及してくると、大工や家具職人といった職人が冬期の副業として、次第にスキー生産に従事するようになった。第二次大戦中は民間需要が減少したことから一時衰えたものの、戦後はスキー生産の工業化が進み、スキー人口の急増もあって、カザマスキー・ハセガワスキーなどを中心に1965年頃には上越地方のスキー生産が全国の約45%を占めていた。しかし、1972年以降の輸入スキーの増加やスキー人口の減少が影響し、現在では上越地方にスキー生産を行う企業は残っていないが、上越市の打江製作所が日本で唯一スキーのエッジを製作している。
長野県のスキー発祥の地である飯山市でも、飯山にスキーを伝えた市川達譲が家具職人へスキー製作を依頼したのを始まりに、スキーの生産が広まった。特に、オガサカスキーやニシザワスキー(後に長野へ移転)などのスキー生産量は1970年頃にはカザマ・ヤマハと並んで、日本の上位4社に名を連ねていた。しかし、飯山市においても、オイルショック・ドルショックなどのあおりを受け、1985年からは4社を残すのみである(※ 現存する企業数は未調査)。

b2 民宿やグリーンツーリズムへの展開

スキーが広まると、スキー場周辺での宿泊客も増加し、既存の宿泊施設だけでは対応できなくなり、農家へ宿泊させるようになった。日本での民宿の発祥は白馬八方でスキー客や登山客を警察の許可を得て宿泊させたこととされている。
このほか、飯山では元々農村地域だったこともあり、スキー場と民宿が併せて開発され、野沢温泉では既存の旅館で収容しきれなかった宿泊客を農家へ収容させたことで民宿が広まった。これ以外の地域でも同様の現象は発生しており、民宿の発展が農業従事者へ労働を提供し、冬期の出稼ぎを減少させた。
こうした民宿は当初、夏期に農業を行い、冬期の農閑期になると宿泊客を受け入れるといった兼業での経営が多かったが、スキー客が増えるにつれて専業化し、施設を改良・拡張するものも増加した。
専業化した民宿では、夏期の労働と施設拡張に投下した資本の回収が求められた。このため、各民宿は体育館やグラウンド等の施設を建設して学生合宿の誘致に努めるなど、スキーシーズンだけでなく、夏期の誘客にも努めた。こんにちでは、こうした取組みはグリーン・ツーリズムとして継承されている。
➡ 詳細は 15 ニューツーリズムを参照

参考文献・サイト

※特に参考とした文献には●を付しました

(全国)
・山崎紫峰(1936):日本スキー発達史、朋文堂
●瓜生卓造(1978):スキー風土記、日貿出版社
・白坂蕃(1980):日本におけるスキー場の分布、学芸地理(34)、東京学芸大学地理学会
・Shigeru SHIRASAKA(1984):Skiing Grounds and Ski Settlements in Japan(日本におけるスキー場とスキー集落)、Geographical Review of Japan Vol.57(Ser.B),No.1
●白坂蕃(1986):スキーと山地集落、民玄書房
・呉羽正昭(2002):日本におけるスキー人口の地理的特徴、筑波大学地球科学系、人文地理学研究26号
●呉羽正昭(2017):スキーリゾートの発展プロセス 日本とオーストリアの比較研究、二宮書店
・山本千雅子・大島淳一(2007):アメダスデータを用いた雪質推定モデルによるスキー場雪質評価、グラデュウス・マルチリンガルサービス
・SKIスキーのいろいろページ+X http://skis-hijikata.o.oo7.jp/
・スキーのあけぼの http://nsa.jpn.com/rekisi/rekisi/akebono.htm
・意外と知らない?スキー場が多い都道府県はここ!
https://skiski.jp/snowcomi/2017001.html
・スキー場情報局 http://skimt.s93.xrea.com/
・スキー・スノボ研究所 https://snow.tabiris.com/
(長野県・新潟県)
・信州の旅.com ホームページ(長野県スキー発祥100年の歴史)
http://www.shinshu-tabi.com/ski100/rekisi.html
・新潟県社会科教育研究会(1980):雪国の風土 信越国境の地理的研究、古今書院
・鈴木健夫・青木宏一郎(1988):スキーリゾートの計画、地域社
・臼田明(2013):日本のスキー・スケート-明治・大正期の長野県-、信毎書籍出版センター

更新履歴

  • 2022年6月7日 「その他の参考情報」を追加しました。
  • 2022年4月21日 ページを公開しました。